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2012年11月25日日曜日

孝子 (K-01 / SMC PENTAX M ZOOM 40-80mm F2.8-4)

先日入手したTOMOS Classic Iに乗って、大阪の南端、岬町の孝子に行ってみた。
大阪から和歌山に行く時に、国道26号線でしばしば通り過ぎるところだが、立ち寄ってみるというのはこれが初めてだ。

カメラはK-01だが、レンズは古レンズ、SMC PENTAX-M ZOOM 40-80mm F2.8-4としてみた。


ズームレンズは初期には望遠域のものばかりで、広角からのズームというのは難しかった。35mmより短いズームは技術的に困難だったそう。
(私もちゃんと理解しているわけじゃないけれど、このへんの話はネット上では増田光紀のMINOXの世界内の「Drマスダの写真レンズ教室」が面白い)

PENTAXの初めてのズームは、手元の本、中村文夫「使うペンタックス」によると、Super TAKUMAR ZOOM 85-210mm F4.5 (1971年)か、あるいは発売年不明のSuper TAKUMAR ZOOM 75-150mm F4.5のよう。
前者は705g、後者は1120gもあるような大層な代物。
一応、Super TAKUMAR ZOOM 45-125mm F4という、標準域からのズームも1974年に発売されたが、これも600gのでっかいレンズだ。

その後しばらく、PENTAXのズームは望遠・重量級だけしかなかったが、70年代後半になって、小型一眼レフ・PENTAX MXやMEを発売し、ボディに併せて小型のMシリーズレンズをやり始めた。
1978~80年くらいにぱたぱたと、24-35、24-50、28-50、35-70、40-80など、広角ズーム・標準ズームといえるようなものがいくつも出る。
で、40-80mm以外のズームは、前玉がでかい。フィルタ径58mmとか、35-70に至っては67mm。
40-80mmは細身のフィルタ径49mm、つまり最近の18-55mmなんかと似たような大きさに収まっている。

当時の値段や売れ行きはよくわからないけれど、中古で安く手に入る弾数の多さを踏まえても、多分、40-80mmが小さなMEに似合うお手軽標準ズーム的な扱いだったんじゃなかろうか。


これをK-01に取り付けると、焦点距離は60-120mmくらい。標準というより中望遠ズームになる。
まあ、DA 40mm F2.8 XSが標準レンズなんだったら、同じ長さなら標準とするしかない。

Mシリーズのレンズは、絞りにAポジションがない。
こういうレンズを使うときは、設定画面で「絞りリングの使用」を「使用する」に設定し、露出モードはMにする。ISOオートは不可で、好みの固定値にしておく。
そして露出を決めるときは、まず絞りリングで絞りを決める。
そしてグリーンボタンを押すと、一瞬だけ絞りが設定値に絞りこまれ、測光が行われて適正露出のシャッタースピードが設定される。
シャッターを切れば、お望みの撮影ができる。算出された露出が気に入らなければ、ダイヤルを回せば調整できる。

PやAvモードにすると、勝手に絞り優先オートで撮影しようとするが、この状態だと絞りは開放にしかならない。
このへんの操作は、初期の*ist Dシリーズから共通……と思ったけど、確か*ist Ds2使ってたときは使うボタンが違うとか、微妙な差はあったような。同じ事はできるはず。

ただ、K-01のグリーンボタンは、かなり押しにくい場所にある。
おかげで、マニュアルレンズ使用時の操作性が悪化してしまった。レッドボタンとグリーンボタンを入れ替えられればいいんだけど……。


K-01の機能として、マニュアルでピント合わせするときに、ピントがあっている部分の輪郭を強調表示する機能がある。
あるのだが、結構甘い範囲で強調する感じ。どうも画面じゅうざわざわして、落ち着いてフレーミングできない。
OKボタンでファインダーが拡大表示になるから、しっかり合わせるならそっちがよさそう。


前置きが長かったが、TOMOSを転がしてどんどん南へ走る。
(ここでTOMOSにまつわる話を長々書き始めそうになったが、それは別の記事にしよう)


南海線の鳥取ノ荘駅あたりで海に出てみた。
RAW現像でちょっと派手目に仕上げたが、撮りっぱなしでもコントラストの出る感じのレンズ。
等倍で見てもそこそこ詳細に写ってるし、古いズームレンズにしてはなかなかいいんじゃないか。

海岸線に沿って道はあるものの、途中で砂浜と海の家のあるところに出てしまい、これはさすがにと引き返した。老人ホームのある辻から、国道26号に戻れる。


少し南に、指出森神社というのがあった。
由緒がなかったので今ぐぐってみたら、神功皇后の三韓征伐から帰ってきた時に立ち寄った、という、関西・中国で非常によくある由緒があるようだ。


狛犬が、なんだかかわいらしい。

このあたりはまだ阪南市で、大阪府最南端の岬町ではない。
引き続きどんどん国道26号を南下していく。


和泉ナンバーの車は運転が荒い、とよくいわれる。
その原因は私が見る限り、ひとつは、やたらと流れが早くなりがちなこと。幹線道路なんか60km/hで走ってるほうがおかしいという調子で、路地でも平気で50km/h以上で走り回る車が少なくない。
それから、より小さい乗り物にやたらと攻撃的。原付をわざわざぶつけるギリギリで追い越すとか、歩行者を避けた原付に二重追い越しをかけるとか、わざわざ交差点直前で二輪を追い越しざまに左折するとか、別に隙間もあいてない二輪や軽四の前にねじこんで無理矢理押し下げる形で車線変更するとか、軽四に車間を詰めまくって煽るとか、そういうことをする車が多い。
他所から来た人には、恐怖の対象となって当然だろうと思う。

で、なぜそんなことを突然書くかというと、国道26号の孝子峠は、かなりの事故多発地帯なのだ。十日に一度というようなペースで事故があるらしい。
孝子峠は二車線だけれど、歩道のない部分があり、路側帯も広くは取られていない。山越えだけに結構カーブも多い。
しかし、大阪から和歌山市へ渡る主要な道のひとつで交通量も多いし、勾配が控えめだから、ママチャリは来ないにしても、ロードバイクが結構来る。

そういうわけで、今日は原付なので、周りの車を出来るだけ無理なく追い越させるように気を使って走る。
まあ、さすがに意図的にギリギリ追い越しをする車は多くはない。
けれど、追い越したいところで対向車が来たら、ちょっと待ってタイミングをずらすんじゃなくて、そのまま対向車と原付の隙間に突っ込むのが和泉の運転。



ともあれ、無事に第一の目的地、橘逸勢の墓に来た。

橘逸勢は、字が上手い怨霊(身も蓋もない簡略化)。
若い頃は遣唐使として中国に渡って、書を学んで帰ってきて「三筆」のひとりに数えられるくらいになったが、年を取ってからは静かに過ごしていた。
ところがなぜか謀反の疑いを掛けられ、仁明天皇の鶴の一声で有罪にされ、伊豆に流された。移送途中、遠江で病没してしまった。
その後、無実の罪で殺された人の例に漏れず、怨霊として恐れられるようになった。

京の都から伊豆に流されて遠江で病没、という移動ラインに、この和泉と紀伊の国境近くという土地は、まったく関係がない。
しかし江戸時代の中頃には存在していた墓所だそうで、なぜそうなったのか、よくわかっていないらしい。

橘逸勢の娘さんは、流罪にされた父を追いかけて、しかし追いついた時にはすでに亡くなっていた父を弔い、遺骨を抱えて京に戻って無罪を訴えた、というエピソードがある。
そんな孝行娘の墓も、近くにある……と看板にはあるのだけど、見ての通りのえらくおおまかな地図。一応南海線の線路を越えてみたのだけど、それらしいものが見当たらない。
このおおまかな看板には、その後もう一度困らされることになる。



ちょっと道を間違ったりして、歩道で地図を確認していたらちょうど電車が来たので一枚。
しかし道の狭さがよく分かるカットになっちゃった。手前側には歩道があるが、ちょうど立っているあたりで途切れる。


逢帰ダムというところがあるようなので行ってみようとしたが、この通り。
上水用のダムだから、万一毒でも流されたら大変ということで立入禁止だった。まー、ダメなら行けんよな。

途中で別の峠に行くダート道があったが、今日のTOMOSではとても無理だろう。いずれTTR持ってこようか。
戻ってくると、なんだか戦闘的な雰囲気のセローを引っ張りだしてる兄さん方がいた。どこか山道突っ込むのかな。


で、孝子観音といわれるお寺があるようなのだが、ルートが見当たらない。
はっきり行き先を示してあるのは、このやばい警告看板がふたつある橋を過ぎた先の登山道だけ。
とりあえず、所詮原付なので橋を通ってしまう。
通った先はガレガレのダート、しかもすぐ見えるところで路肩が崩落して沢に落ちており、そもそも車なんか通り用がないような道だった。

とりあえず、邪魔にはなりそうにないのでそのへんにTOMOSを停めて、案内板の指している方に山道を上がっていく。


最初はダートの坂道だったが、程なく石段になった。


途中でちょっと開けて、こんな景色。
どうもこのレンズは、逆光気味だと紫に転ぶことがあるようだけど、その効果もあってか、すごい写りになった。これ撮って出しなのだが。


振り返ると、孝子観音の仁王門が見える。
また結構な色の出方。


なぜか一輪だけ、ツツジが今頃咲いていた。季節間違えたか。

M 40-80mmは、80mm端でマクロモードがある。最大で1:4の倍率で、37cmまで寄れる。
APS-C版の23.4x15.6mmの4倍、つまり縦横2倍くらいのサイズが画面いっぱいに入る……と思えばいいはずなので、まあ45x30ミリくらいのものが画面一杯にできるかな。
(あ、違うか、縦横4倍で90x45ミリくらいが収まるのか? どっちだっけ?)
ちなみにマクロ以外の最短は1.2mで、かなり長い。不便に感じることもある。

このレンズのマクロは結構よく写るといわれてるそうだが、ボケはあんまり綺麗そうにないな。



仁王門の仁王様。
ちょっと造形センスが新しい気がする。


いよいよ本堂のあるところまで登ってきた。
まあ、登ってしまってから気づいたところでは、集落側からショートカット階段があったようだけれど。


役行者の母の墓があった。
このあたりの和泉山脈は、役行者が修行していた霊山だから、いろんな所に役行者にまつわる遺跡や伝承があるのだが、母親の墓というのは大物だ。

しかしやっぱりコントラストきついレンズだ。


一応高仙寺孝子観音本堂の写真。あまりスペースがなくて、レンズが長いせいもあってこんなアングルになっちゃったけれど。

高台からの見晴らしは、向いているのが谷間の方だから、それほど良くはない。向かいの山とか、近くの孝子の集落が見える程度。しかし、かえってそれがいい。
少しばかりの紅葉も、実に良いタイミングの色づきだった。
寺に桜や紅葉を植えるのは客寄せのためだそうだけど、大阪の南の果て、山の中の小さな集落からさらに隔たった高台の、とても名所になんかなりようがない寺のつつましい紅葉樹となれば、これはわざわざやってきた物好きを出迎える、慎ましい心尽くしに思えて、嬉しくなる。


山から下りてきて、停めてあったTOMOSの前を通り過ぎる。
さっきの老朽化した橋の近くに、例のおおまかな看板があって、役行者の遺跡があるという案内が出ていた。
で、その看板が指してるらしいあたりを探ってみるべく、山の方へ足を踏み入れかけた。
ここらの山には葛城二十八宿という、役行者が妙法蓮華経の各品を奉納した経塚がいくつもあるのだが、そのうちのひとつでもあるのかなー、などと思いながら、マムシに注意の看板も気にせず坂道を登ろうとした。

そこで、背後でなんかガシャンと音がして、振り返るとTOMOSがすっ転んでいる。
なんでそんな何事もないのに、私が通り過ぎた途端にコケるんだ、と慌てて戻る。
まあ、TOMOSは特にダメージもなく無事だった。ハンドルとペダルとサイドバッグが接地する感じで、ミラーもついてない左側だったから、まあ、無傷に近い。
が、よりによってヘルメットを掛けてある側のハンドルが下になってコケた。
巻き込まれたヘルメットには、哀れにも大きなキズが付いた。シールドも傷ついた。もしかしたら防御力にも問題がある状態かもしれない。
OGKとはいえ、結構高いメットなのになあ。泣ける。今月他にも色々酷い目にあってるんだよなあ。

しかしまあ、もしかすると、あのまま山に入ったらマムシに食われるとか、崖から転落するとか、もっと酷い目にあってたのかもしれない。TOMOSが身を持って知らせてくれた……とオカルトしておこう。



こちらの下孝子集落を離れ、南海線の孝子駅があるあたりの中孝子集落へ移動。
国道から、窓に「岬の歴史館」と張り紙をした建物が見える。前から気づいていたが、今回初めてそこに行ってみる。


廃校になった孝子小学校を利用した展示施設のよう。
ほとんど学校そのままなので、果たして営業中なのか、入っていいのか迷ったが、靴箱を見ると中に誰か居るようだったので、えいやっと入ってみた。


戸を開ける音を聞いてか、中から職員の方が来てくれた。
見学してもよい、と確認し、木造校舎が懐かしいというような世間話を少し。

私が通っていた小学校は、もう今なら確実に耐震基準どうとかで使用禁止になってるようなボロい木造校舎で、しょっちゅう床を踏み抜いては、先生が板切れ持ってきて補修していた。結局、私が使った年が限界で、進級とともに取り壊されてしまった。
あれに比べればはるかに綺麗。ただ、この廊下部分は後から増築したと、職員の方のお話。そういわれると、教室側と外側の雰囲気が違うかも。

「けいおん!」で有名な豊郷小学校は、まあ、実に立派な作りで惚れ惚れするくらいだったけれど、これくらい素朴な作りの方が、私のイメージする「昭和の小学校」とマッチするかな。


岬町内には古墳群があったりもするので、考古学の展示をしている部屋がある。
南方熊楠、ときたか。他には、ナウマンゾウの化石が出たりもする。


ローカル萌えキャラ。



それから、この地方で盛んだったらしい瓦の生産についての展示室も。
またかなりのコワモテである。


古文書ってほどじゃないけど、古い文書を展示していたりも。

現在の友ヶ島から対岸の加太一帯が、大日本帝国軍の砲台基地とされていた時代がある。
バルチック艦隊が紀州水道から大阪湾に侵入しようとしたら、最終防衛ラインとなるのはここだった。
今でも砲台跡が残っていたりして、見に行くとちょっとおもしろい。かのデスクリムゾンのロケ地でもある。上からくるぞ、気をつけろぉ!
で、これは、その基地があるから、近辺を勝手に測量したりすんな、というお達しの書類。こういう制限があるから、第二次大戦が終わって基地が開放されるまでは、加太の北と友ヶ島は地図に載らない土地だったらしい。


教室がひとつ、歴史講習会とかをやるために使われているそう。
今日は何もやっていないから、懐かしい昭和の教室がそのままの姿。


なぜか講堂だけ新しいのだが、これはたまたま改築した翌年に廃校が決まったせいだそう。平成の建物だ。

これで孝子散策は終わり。
小さな村なので長居はしなかったが、高仙寺は気持ちが良かったし、岬の歴史館は懐かしいところだった。


今日のM 40-80mm F2.8-4だが、古いレンズにしては、まあまあ良い感じに写っていると思う。
テレ端、多分F8くらいのカットを等倍切り出ししてみた。
露出が違うのは、RAW現像の時に修正したので。下は撮って出し。

この距離で竿が写ってるんだから、十分解像力はあるだろう。
ちょっとニジみがあるのも、これはわざわざ古いのつかう味だとしよう。
絞ってるせいもあると思うが、周辺減光も大したレベルじゃない。

ただ、釣り人のおっちゃんの服が、不思議な色に写ってる。ディザなしで32bitフルカラーを16bit 65536色に減らしたみたいな……


逆光の紫かぶりは、酷いとこんな感じになる。AWBなんだけどなあ……


しかし、順光ではだいぶハイコントラストなキリッとした絵が出るので、なかなか好きな感じのレンズ。デジタルだからダメって感じもしない。
60~120mmの2倍ズーム、というレンジの使い道がいまいち決められないのが難だけれど。