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2012年8月15日水曜日

高知旅行3日目(宿毛~帰路) w/ K-x

三日目。

今回の旅では、K-xのカラーモードをMIYABIにしてたのだが、あんまり初めてのことをいきなりやるもんじゃなかったなあ。
私はついつい露出アンダーで撮ってしまう傾向があるけれど、MIYABIの場合はかなりオーバーに撮ってやると色が鮮やかに出るので、そのように使うもののよう。





東宿毛の宿からすぐ近くに、宿毛文化センターという建物がある。
ここの3階が、宿毛歴史館になっている。

貝塚から見つかった旧石器時代、まだ都佐国とは別の波多国だった時代、一条氏時代の隆盛、長宗我部はさらっと触れた程度で安東氏(山内一豊の甥の安東可氏から)の治世、名奉行野中兼山の改革と失脚、維新時代と宿毛の歴史を通して見られる。
中村同様にこちらでも一条氏の評価が高いようで、長宗我部はあまり好いていないのか、その時代については実にさらっとしか触れていなかったのがちょっと面白い。
やはり人材豊かな土佐らしく、バカヤロー宰相吉田茂、小松製作所設立者の竹内明太郎、龍谷大学や武蔵野女子大の創立者である後藤環爾などなど、様々な人が出ているのも紹介されている。

野中兼山は、もともと山内一豊の妹を祖母に持ち、色々ありつつも土佐で奉行をやることになった人物。
新田や林業の開拓、捕鯨などの産業振興、そして各地の土木工事を進めて藩政を大きく改革せしめた。

しかし、野中兼山が奉行になったのは江戸時代が始まって30年くらいの初期も初期。なんでそんな早くから藩政改革が必要なのかと疑問だった。
ちょっと調べた感じ、どうも土佐藩は四国随一でありたいという思いが強かったようで、長宗我部時代に10万石足らずといっていたのを、山内一豊は20万石ちょっとと申告していた。
しかも、徳島藩が加増されて25万7000石になると、また対抗してうちも25万7000石ちょっとある、と言い出した。(却下されるが)
石高が増えると幕府から負担させられることが増えて苦しくなる。野中兼山が藩政改革を命じられた頃は、その自称25万7000石以上時代。
すると自称ほどの実石高がなく、ビッグマウスでえらいことになっていたのかもしれない。

藩政は好転したものの、農民にとっては過酷でもあった。兼山は儒学者でもあるので、いささか厳しい面もあったようだ。
山内一豊が作った上士・下士の身分も無視して、有能なら下士でも取り立てるといったことをしていたら、上士から反発を買っていた。
そしてついに、藩主の代替わりとともに他の家老から弾劾されて失脚。

兼山と一族は宿毛に幽閉され、兼山自身はすぐに亡くなる。
一族はその後、男系が途絶えるまで40年も幽閉され続ける、という酷い目に遭う。



歴史館からすぐ北に、宿毛小学校がある。
小学校はもともと宿毛領主の居館の隣の土地だったそうで、野中兼山の一族が幽閉されていたのもこの場所になる。
竹で囲まれた家から一歩も出られない生活だったそうで、40年で男子がみな亡くなってやっと解放されたのは前述のとおり。
娘3人が生き延びたが、四女の婉は高知市の朝倉に医者になった。
その生涯が、大原富枝の小説「婉という女」で有名になり、これは映画にもなった。



小学校の裏の山が、東福院という禅寺になっている。


ここには、安東(山内)可氏の墓所がある。
すぐ奥には、野中兼山の一族の墓所も。


何か食事できるところ、せめて何か買えるところ、と朝9時の東宿毛をさまよい歩いていると、モーニングをやってる喫茶店を発見。
入ってみると、地元のおじいさんおばあさんばかり。
そしてインベーダー時代から残るようなテーブル型のゲーム台。そしていつのものだか花札ゲームが稼働していて、おばあちゃんがコンピュータと戦っていた。
ツナホットサンドセットなんてハイカラなものを頼んでみれば、味噌汁がついてきた。


宿毛では、というか、宿毛でも、というか、やはり自由民権運動の活動家が大勢出たようで、東宿毛を歩くと「誰それが生まれたところ」「誰それの家があったところ」というのが無数にある。
(写真は林有造の邸宅。自由民権運動の活動家で立志舎にも加わり、初代高知県令や大隈内閣の逓信大臣を務めた)

それらを見たりしているうちに、東宿毛に汽車がくる時間。逃すと2時間後。


東宿毛駅に詩人がいた。(J-POPの歌詞っぽいとかは言わない)


そして終端、宿毛駅。
ここからはまた路線バス。


南予地方をひた走る。
母方の田舎は、まさにこんな南予の入り組んだ海岸線にある小さな半農半漁の集落。海は開けていなくて、養殖の筏が海に規則正しく並んでいる。懐かしい景色。
もっともその景色は、海からすぐのところが段々畑になっていないといけないが、あれはもっともっと土地のない辺鄙なところのものか。あの景色の場所に、こんな幹線道を通すスペースはない。


2時間ほど走って、宇和島に到着。
もう一泊するなら宇和島も観光したいが、まあ、宇和島ならまた来る機会もある気がする。

宇和島駅で松山恵子の駅コンサートを開いた時、ヒット曲の「お別れ公衆電話」にちなんで作られたモニュメントがあった。


特急宇和海に乗り込む。
またアンパンマン列車やで。四国はやなせたかしのもちたる国や。


宇和海は松山まで行く。そこからは、特急しおかぜに乗り換える。
松山から岡山駅まで一気に行ってしまう、結構な長距離特急。

松山駅では乗客の行列が長く、指定席なんかまったく空いてなかったので心配だったが、幸いにも座れた。
宇和島← 指指指自自指指自 →岡山、と不思議な並びで電車を繋いでいたので、先頭の自由席に余裕があった。普段は途中で岡山行きと高松行きを分離するためにこんな並びなようだ。
多客期なので全車岡山行きになっているので、先頭車に乗っていればそのまま岡山。

車窓の景色は、さすがに南予や徳島南に比べると、都市はかなり都市らしい。
しかし特急通過駅となると、海沿いの僅かな集落に駅があるだけ、みたいな感じのところもある。

途中、津嶋神社という、海の上の小さな島に神社があり、そこに橋がかかっているのが車窓から見えるところがある。
ここに一度行ってみたいと思ってはいるのだが、8月4日・5日の祭りの時しかこの橋は渡れず、また近くの津島ノ宮駅もその時以外は使われない臨時駅。
いつか機会を作れれば行ってみたいところなのだけど……


岡山から先は、普通に新幹線で大阪に帰った。
ずっと特急で一気に行くと、早いけど愛想ないね。



こうしてまとめると移動しかしてないような変な旅行であったが、移動自体も楽しいものだと思う方なので、私はこれでいいのだ。