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2012年7月7日土曜日

八坂神社 w/ Cybershot DSC-F55K

昨夜は、夕方に新しいスクーターを注文しに行って、なんとか小雨程度しか降られずに帰ってきたと思ったら、夜遅くなるに連れて恐ろしいほど土砂降りになった。
今朝もまだ雨模様ではあったのだが、しかし、これならもう降らないんじゃないかな、という雰囲気があったので、外出決行。
決行してみれば、降らないどころか午後には日差しが出てきたほどだった。

持ちだしたカメラは、サイバーショットDSC-F55K。
サイバーショットといえば、デジカメといえば、サイバーショットPシリーズのレンズが端に寄ったスタイルのものを思い浮かべる人は多いという。少なくとも友人ひとりはそうだし、私が初めて触ったデジカメもDSC-P1だった。
しかし、1996年に出た元祖サイバーショットであるDSC-F1は、回転レンズをボディ上部に備える異形のデジカメで、人によっては「サイバーショットといえばこれ」と思うモノなのかもしれない。
その直系子孫が今日のDSC-F55Kになる。
ちなみに、コンシューマ向けでは世界初の200万画素デジカメでもある。



実は当初行こうとしていたところは別だったのだけど、京阪かJRに乗るべきところを阪急に乗ってしまい、ちょっとずれたところに出て、急遽歩く場所を変えた。
どうも未だに、大阪から京都に行く時に何に乗るべきかをよく間違える……

で、降りたら出町柳である。
とりあえず東のほうに歩いて行って、山沿いの色々を見ていこうとする。



早速、鴨川沿いにある中華料理屋のふもとに碑を発見。
出雲の阿国がかぶき踊りを初めて披露したところである、という。松竹が昭和28年に作ったそう。
って前にも見たことあったような?

四条大橋を渡るといわゆる祇園のあたり。



道沿いにお寺を見つけて寄ってみる。
仲源寺、めやみ地蔵という。
鎌倉時代に瀬田判官中原為兼が、鴨川の氾濫に遭って流される人を地蔵菩薩が助けるのを見、地蔵菩薩を「雨止み地蔵」として祀り、中原の名前に人と水を添えて仲源寺と名づけた。
その後地蔵菩薩は、眼病みの老夫婦の病を自らの目に移して救ったことから、いつからかアが取れて目疾地蔵となった。



祇園の町に寄り道はせず、通りを端まで行くと八坂神社。
古くからあるのに延喜式には載ってない、神仏習合の色が濃く、興福寺や延暦寺の支配を受けていて牛頭天王を祀る寺だとも見られていたという変わった神社。
この楼門がいきなり重要文化財で、よく見ると方々に汚すな傷つけるなタバコを吸うなと警告がある。


入ってすぐ、素盞鳴尊を祀る神社にはよくセットになっているらしい蘇民将来を祀る疫神社。
素盞鳴尊が諸国を巡っていた時、金持ちに宿を乞うたが断られ、代わって貧しい蘇民将来が貧しいなりのもてなしで宿を提供した所、スサノオが身分を明かして、以後疫病があっても茅の輪をつけて「蘇民将来之子孫也」といえば災厄から守ると約束した、という古物語がある。


摂末社はいっぱいあるので飛ばし飛ばしになるが、この北向蛭子社は、1646年建造の社殿が今も残り、国の重文。
10年ほど前に塗り替え・葺き替えをやってあるが、それでも近くで見ると古さがある。


拝殿、というか本殿というか、八坂神社の祇園造は、拝殿と本殿が一体化している。
入母屋造りだが、入り口以外の三方にはもう一段下にも孫屋根がある。そういえば北向蛭子社も小さいけど祇園造だったような。(写真にちゃんと写ってないけど)


ちょうちんが舞殿にいっぱい掛けられていた。


本殿を囲むように摂末社が並んでいるが、その間に忠盛燈籠なるものがある。
ある五月雨の夜、白河法皇が通りかかりに、鬼のようなものを見かけ平忠盛に討ち取れと命じた。しかし忠盛は討ち取らず生け捕りにしたところ、銀の針で身を包んだ鬼などではなく、灯籠に明かりをつけようとしていた祇園社の僧で、火の明かりが雨よけの蓑にあたって針の衣に見えただけであった。
その時の灯籠がこれだという。

そんな話は創作じゃないか、そういう出来事はあってもこの灯籠は関係ないんじゃないか、などと浅はかな疑いもつい持ってしまうが、しかし京都や奈良の場合は、平安末期なんて最近のことだったら十分本当でありえる気もする。



美御前社は改築中。女性には残念なタイミング。


刃物神社というのがあり(写真手前)、刃物発祥の地だといっている。
説明の碑はあるのだが、「刃物の基礎はこの地の土壌に培れ」と書いてある程度で、どういう歴史があって刃物発祥なんてすごいことを主張しているかはよくわからない。
二上山だったら、それこそ打製石器の原産地だから刃物発祥というてもわからんではないけれど。
金属製でなければだめとなれば、奈良時代に武器を扱っていた石上神宮とか物部氏なんかが関わってきそうに思う。
今でいう日本刀ができたのは平安時代らしいから、そのへんのことだろうか。


円山公園でもぶらついていけばいいところだが、地理の把握が甘かったので南に抜けてしまった。

南側には、東大谷祖廟がある。

一応私の家は浄土真宗だからして、親鸞上人を無視していくのは忍びない。



門前に浴衣の男性が頭を垂れていて、親鸞上人の御遺徳を偲んでいるのかと思ったらスマートフォンをいじっていた。
しかしまあ、親鸞上人はそれくらいのことは気にしないだろう。

どうも親鸞上人の廟はそこらじゅうにあるな、という気がするが、ここの説明板にもわけがわからないほど移転や改称の履歴が書き並べられていた。取り合いでもやっていたのだろうか。
最近仏教に興味を持ったばかりだから、一応生前の親鸞上人についての本は少し読んだけれど、その後のことまではまだ不勉強。


御廟。
手前の屋根はもうちょっとなんとかならんかったものかな……


ここからまた南へ行くと程なく、芭蕉堂・西行庵と看板のついた建物がある。


どうも芭蕉堂の方は、写真を撮り間違ったよう。喫茶店のような店をやっていたが……
大河でも活躍していた西行法師・佐藤義清が、最後に庵を結んだところであるそう。
で、その西行の大ファンであった松尾芭蕉がここで一句詠んで、高桑ちん更という加賀の俳人がその句にちなんで開いたのが芭蕉堂だそう。


そこから南に石畳の道がある。高台寺通り、愛称ではねねの道というそう。
ここはわりと観光地然としている。しかし、修学旅行生が押し寄せるほどの場所でもない。ちょっと土産物屋など冷やかすのに良いバランス。買わなかったけど。


道中には、伊東甲子太郎の御陵衛士の屯所があった。


もうちょっといくと、ねねの道の由来そのものたる高台寺。
ねねの方が秀吉を弔うために開いた寺で、家康も(政治的配慮で)多額の寄進をした。


境内の写真はなんか中途半端にしてしまった。


高台天神というお社は、ねねの兄の木下家定が、高台寺を開くときにねねのよく参っていた綱敷天満宮から分祀して鎮守とした。
高台寺の奥にあったのを人が多いから下に移し、明治になって神仏分離令で規模を小さくしてまた奥に移り、つい5年ほど前に今のところに映った。
中を覗くとなんとなくお寺のような、神社っぽくない造りだった。


天神社の横に、マニ車がたくさん並んでいた。


さらに南へ、駐車場を抜けて歩いて行く。なにやら左手に大仏が見えていたが。
前方にはいかにも京風の町が見えるが、私は手前の道を左に折れる。



道を上りかけると、翠紅館というのがある。
幕末に、土佐藩の武市半平太や井上聞多、久坂玄瑞、長州の久坂玄瑞、真木和泉などが集まって攘夷について会議を行なっていたそう。


さらにこんな坂道を上がる。
維新の道、と名付けられた道だが、左手に見える石碑は松下幸之助の揮毫。


上がりきったら、京都霊山護国神社がある。
明治天皇のご意思で、維新の殉難者をこの霊山に祀ったのが始まりで、明治元年の太政官布告によって日本初の官祭招魂社とされた。
昭和になって京都霊山護国神社と名前を変えて、今では日清・日露戦争、大東亜戦争の戦没者も祀っている。

その奥には、維新の殉難者が眠る墓地がある。
別に遺骨があるわけではなさそうだけども、神社の最初の祭神として、ひとりひとり墓標を立てている。
もちろん、新選組は逆賊ということでここにはない。

天誅組の吉村寅太郎


安政の大獄の頼三樹三郎ら
大村益次郎


ここの目玉、などというのもなんだが、坂本龍馬と中岡慎太郎はやはり知名度が高い。
特に歴史ファンというわけではないらしい家族連れや、歴史ファンらしい女性が集まっていた。
この銅像は、いかにも大きく見えるように写真に撮ってみたが、小さいもの。同じデザインの大きいのが円山公園にあるが、こっちがオリジナルで円山公園のは拡大コピーだそう。

池田屋事件
高杉晋作
藩の招魂碑もある。
木戸孝允や久坂玄瑞もあったそうだが、ちょっと見落としてしまったよう。
有名人だからってはっきりわかりやすく建っているとも限らず、高杉晋作はしれっと建っていた。


下山ルートに沿っていくと、駆逐艦長波の慰霊碑などがあって、最後にパール判事の顕彰碑があった。



その向かいは、霊山歴史館。
実は霊山護国神社は戦後に荒廃していた時期があり、戦後に松下幸之助先生を初代会長として発足した霊山顕彰会が復興させたという経緯がある。
そのとき、参集殿の跡地に建設したのがこの博物館。
石畳は、明治28年に日本で初めて作られた路面電車の敷石を再利用したものだそう。

霊山護国神社が硬いというか軍隊色が強いのに比べ、こちらはそれとなく「ドラマでおなじみ」とか書いていたり、意外とやわらかい。
展示を見てみると、逆賊かと思われた新選組もかなり大きく扱っている。
新選組をヒロイックに扱って、池田屋事件を精緻なフィギュアで再現した見事なジオラマがあった。竜馬暗殺ジオラマもあったり、ジオラマ好きなのかもしれない。






さらに南へ。今回は南へ南へ行っている。


霊山本廟・霊山興正寺がある。真宗興正派という分派の寺であるそう。
やはり浄土真宗の信者として親鸞上人をスルーするわけにはいかないので参拝。
写真は本堂だが、右手に御廟がある。


ここからさらに南へ行けば清水寺に当たるのだが、さすがにあんな人の多いところに行くのもしんどい。
山沿いに南下してきたとはいえ、結構あがったり下がったりもしているので、清水寺に上る道を逆に下がっていくことにした。大した距離歩いてないけどね。


降りて住宅地に入ると、六道珍皇寺という面白い名前の寺があった。
かつてはこのあたりで死者を送る野辺送りをやっていて、この世とあの世の境・六道の辻といわれていた。
昼は嵯峨天皇、夜は閻魔大王に使えたという小野篁が、ここを通って閻魔大王のいる地獄へ通っていたそう。

写真のお堂に、小野篁と閻魔大王の像がある。


この本堂の横手に引き戸があり、その格子から覗くと、庭に井戸がある。
その井戸を通って、小野篁は冥界に行っていたという。



近くに六波羅蜜寺。
しかしここに来たら観光ツアーの人たちにぶつかって、ちょっと面倒になっちゃったので外からお祈りするにとどめた。


南に降りて、国道1号にぶつかったところでちょっと東へ。
若宮八幡宮という神社があるはず……と思っていたら、


路地に向けて看板がある。
路地を覗いて、なんとなくピンときたので入っていってみると、この店構え。
京都なんかで小奇麗な店構えをしていると、あまりにイカニモすぎるというもので、寄ってみる気にもなれないが、この昭和感あふれる建物や。

入ってみると、年配の店員さんが渋い文庫本を開いたり値札をつけたりしつつ、店の中は所狭しとぎっしり、茶碗・ぐいのみ・徳利など大まかにテーブルや棚ごとに区分けした程度で、ひたすら大量の京焼・清水焼が並ぶ。
ふらっとやってきた若造にはそれほど目もくれず、しかし、お前みたいなガキは客やない、というような嫌な雰囲気もなく、いらっしゃいませの一言のあとは自然にほっておいてくれる。


これでも焼物はわりと好きだから、京焼は持ってないし何か、と思ってたら、こんな不思議な色の徳利を見つけた。そんなに多くの焼物を知ってるわけではないけれど、これは初めて見る。
ちょっと釉薬に穴があったり、若干黒ずんだところがあったりして、名器とか逸品というものでもないのだろうけれども、そのせいか値段も手頃で、衝動買いにはうってつけだった。
最近ウィスキーばっかりだけど、また日本酒やろう。


そして隣に若宮八幡宮。
陶器神社、という提灯も見えるが、これは陶祖神の椎根津彦命が合祀されていることによる。
平安時代に後冷泉天皇が創建したが、応仁の乱などで方々社地を転々とし、1605年にここに落ち着いた。社殿もまた1654年のものと歴史がある。
毎年8月7日から四日間、祭りとともに一大陶器市が開かれるそう。タイミングがあえば寄ってみようかな。

ここからもうちょっと歩いたが、結局三十三間堂の近くでバスに乗り、JR京都駅へ。
いい買い物ができた散策だった。



今日のDSC-F55Kは、まあ、時代を感じるところは多い。
沈胴式レンズでもないのに起動に5~6秒かかったり、1400mAhなんてスマートフォン並のバッテリーを積んでいながら、Infolithiumの表示で80分程度しか持たない。
京都だけあって撮影枚数が多くなったとはいえ、久しぶりに途中でバッテリー交換をした。
液晶モニターもかなりの見づらさ。DSC-F505Vも見づらかったが、明るさを上げるとだいぶマシになった。こっちは明るさ上げてもマシにならない。
操作系も、DSC-F505Vとあまり変わらない。まあ、あっちは細かい操作もできるのにそれがボタンの機能と一致していない感じだったが、F55Kは基本フルオートで細かい設定しないから、それほど気にはならないが。

しかし、上がった写真を見てみると、おっ、と思わせる画質。
これでも世界初の200万画素機、レンズも(まあ名前借りとはいえ)カールツァイス・ディスタゴン。
まあホワイトバランスはちょっとコケる、ハイライトはぶっとびやすいとはいえ、これならよく写っているといえるレベル。
下手にズームレンズじゃないのがいい。

スイバル機としてもちょっと変わった回転軸だが、この位置にすると液晶モニターが大きく取れるメリットがあるように感じる。この時代に2型12万画素のモニターは立派。見づらいけど。
今のデジカメは、背面いっぱいくらいの大型液晶が当たり前だから、ボディの半分が回転してしまうようなスイバル機は作れないだろうが、上部に回転レンズがつく形ならアリかもしれない。


最近使う古カメラはスイバルが多いが、やっぱり面白い。
こんなことならカシオのEX-TR100を買っておけばよかったが、「こんな明らかに悪いレンズのカメラに3万円は……」とか思ってるうちに値下がりして、値下がりに気づく前に消滅してしまって、あれは大失敗だった。
古いスイバルはそれはそれで味のあるカメラばかりだけど、旅行に持ち出す気になれるレベルの実用性はさすがに求められないし。


ところで、DSC-F505Vと同様、F55Kも1/30秒くらいのシャッタースピードで増感するようだ。
EXIFは記録されるけど、シャッタースピードなどの項目がなくて、はっきりわからないが、かなり暗くても手ブレなど全然なかったが、その分増感したらしい絵はあったので。
今の私の感覚では、手ブレするより増感ノイズが出るほうがよほどマシなのだが、当時のユーザーレビューを検索で見ると、「低速シャッターが切れなくて、暗いとノイズが増えて画質が落ちてしまう」と捉える人も多かったように見受けられた。

高級機5~600万画素、廉価モデル300万画素くらいのカメラは、とにかく増感したがらないカメラが多かった。オートで使ってたら、ISO50で1/8秒とか言い出すカメラがよくある。
もう少し時代が進んで、高感度撮影と手ぶれ補正が広まり、急激に「ブレは悪」という方にパラダイムシフトがあったのは、わりとわかりやすく見て取れる。
しかし、500万画素時代にどれもこれもブレるカメラになる以前、もしかすると、「ちょっと暗いぐらいですぐ増感して画質を落とすのは悪」というシフトもあったのかもしれない。
そういえば、130~200万画素くらいが高級機だった20世紀のカメラは、意外と手ブレしづらい気がする。
単に画素数が少なくてブレてもわかりづらいのかと思っていたが、もしかすると?